おもちゃのピアノで練習
3歳の時からピアノを習い始めるが、最初はおもちゃのピアノで練習。
分からないところも十分に教えてもらえず、できなくて母一緒にと泣いたことも多かった。
朝幼稚園に行く前にピアノの練習をすることが日課であり、練習が終わらないと幼稚園に行かせてもらえず泣きながら遅刻して幼稚園に行った。
今思えば日常生活の中にピアノの練習を習慣化させてくれた親に感謝している。
幼稚園の同い年の子達の中ではしっかりした子だったので、同僚の子の面倒を見させられたりしていた。
その頃は身体の弱い子供で、月曜日から土曜日まで登園すると土曜日の夜に熱を出し、日曜日一日寝て月曜日に登園するというサイクルを繰り返していた。
この頃からピアニストになりたいと言っていた。
負けず嫌い
小学校入学の数日前に木から落ちて左腕にひびが入り、一ヶ月間は左腕をギブスで固めた状態でピアノも右手のみの練習しかできなかった。
譜読みが決して早い方ではなく与えられた曲に慣れるのに時間がかかった。
ピアノのお教室に通う子の中にすぐに弾けるようになってしまう子がいて、羨ましい反面その子には負けたくないという思いもあり、毎日欠かさず練習していた。
2年生の時近所に引っ越してきたピアノの先生が、私の練習しているのを聞いて
「私の所でレッスンしなさい」
と声をかけてくれたのを機に先生を変わることになるが、教本的には随分進んでいたのに基本的な楽譜の見方ができていないということで前に戻ってやり直しさせられた。
子供ながらに落ち込んだが、持ち前の頑張りですぐに先の曲を弾けるようにらるが、4年生の時にその先生の紹介で東京から箱根の強羅に教えに来ていた先生に師事することになる。
毎年この先生は銀座のヤマハホールで発表会を催し、発表会の後には講評会があり、その際の演奏評価はいつもAをいただけた。
学校生活ではクラスの委員長か副委員長に選ばれ、学芸会では主役を演じたりしていた。
4年生の時から鼓笛隊のメンバーに選ばれて常にメロディーを奏でる楽器を担当させられていた。
修学旅行先からレッスンに?
中学ではクラブ活動は軟式庭球部に入部し、毎日のように練習にあけくれる。
3年生の時は部長になり、県大会出場をはたす。
2年生の夏休みには幹部候補生に選ばれ合宿に参加、3年生の時は生徒会の書記を務める。
3年生の時音大進学を決意、そのことを音楽の教師に相談すると、芸大に合格した教え子がいるということで連絡を取ってくださり、その当時東京芸術大学の教授だった中山靖子先生の門下生となる。
レッスンは先生のお弟子さんに普段はレッスンしてもらい、一ヶ月に一度中山先生に見ていただくというスタイルで行われた。
お弟子さんのレッスンでは手の形を徹底的に直すことから始まったし、中山先生のレッスンではめちゃくちゃ緊張して伸び伸び弾けないレッスンの時はとても情け無い思いで帰宅したりした。
先生の言うことは絶対だったので、レッスン日が修学旅行の日に当たってしまっても言うことができず、泣く泣く修学旅行途中で父に旅行先の奈良まで迎えに来てもらいレッスンに行った。
受験に聴音やソルフェージュが必要なことを知ったのは中山先生についてからだったので、特に聴音の書き取りには苦労した。
勉強とピアノの両立
公立では県西トップの小田原高校に進学し、クラブ活動は弓道部に入部し引退時期まで続ける。
高校の視聴覚室で休み時間にピアノの練習をすることを許可してもらって学校内でも練習した。
2年生後半になると、ピアノレッスンは週2~3回+ソルフェージュ+中山先生と忙しくなり、高校でも修学旅行に行けなかった。
それでも中学の時とは違い東京芸大受験を目指していたので、ピアノの為に行かれないのは当然という気持ちになっていた。
中山先生に芸大受験の許可をいただいた時には小躍りして喜んだが、受験の結果は不合格で浪人生活に入る。
浪人生活はピアノ漬けで一日最低でも6時間くらいの練習をしたが、2度目の芸大受験は叶わず武蔵野音楽大学に進学する。
父の死
武蔵野音楽大学入間校舎の第一期生となり、2年間の寮生活(週末には実家に帰り月曜の朝寮に戻る)をする。
3年生からは校舎が江古田になったのでアパートを借りてグランドピアノの下に寝る自炊生活をする。
自炊生活を始めて間もない6月に母から「父がヘリコプターの墜落事故で亡くなった」と連絡が入る。
自宅にすぐ戻り残された家族で墜落現場に急行するが、身元が判明するまで一日以上待たされ、合同葬儀の後自宅でお通夜、お寺での葬儀と本当に大変だった。
母は悲しみの余り2~3ヶ月間まともな食事も喉を通らず、お豆腐しか食べられないような日が続いた。
それでも私が大学をやめずに通えたのは母のお陰としか言いようがない。
大学3年生の冬に日独交流協会の試験を受けて合格し、春休みにドイツで2週間の親善交流して来る。
大学4年を終了した後、洗足学園の専攻科で更にピアノの研鑽を積んだ。
非常勤講師に
卒業後自宅(小田原)でピアノを教える傍ら、茅ヶ崎高校定時制の非常勤講師として3年間音楽の授業を受け持つ。
ピアノ教室は15人〜20人くらいの生徒さんがレッスンに来ていた。
昔の生徒さんからは厳しい先生だったと言われるが、嫁入り先で子育てを終えてまたピアノを新たなお教室で勉強し始めた元生徒さんが、
「佐藤先生に習っていて良かった。新しい先生からも本当に良い先生に教えてもらっていましたね。と褒められた」
とわざわざ手紙をくれたことはとても嬉しかった。
また何人もの生徒さんが、ご自身のお子さんをレッスンに通わせてきたり、生徒さんのお母様が
「先生が良いから」
と他の生徒さんを紹介して下さったりした。
結婚、そして不妊治療
結婚を機に非常勤講師を辞めるが、実家でのピアノレッスンは続ける。
なかなか子供ができず、不妊治療にも通ったりした。
姑には治療に通い痛い思いをしているという話をしている矢先、悔しかったら生んでみろ的なことを言われて凹んだが、結婚6年目にして
「赤ちゃんができましたよ」
と産科の先生から言われた時には、グッとこみ上げるものがあって涙が止まらなかった。
あれだけできなかった子供だが、1年半後には二人目も出産できた。
子育てでブルーに
二人の年齢差が一歳半と近いことと二人の性格がまるで正反対だったので、一人に目をかけるともう一人がやっかみよくケンカもした。また性格の違う子供二人に同じ注意をすることが出来ず、子育てではかなりブルーになったこともある。
長女は福祉科へ
上の子は石橋を叩いても渡らないような性格で、とにかく真面目に机に向かって勉強しているのに成績は良くなかった。
親としては出来ないはずがないと一緒に勉強を見たりしたが、特に数学(実際は算数すら)は数字を見るだけでパニックになってしまい泣き叫んだりしたこともあって、何でこれが分からないのだろうと悩んだりしたが、諦めることなく娘に付き合った。
その甲斐あって娘は大学に進学し福祉科を専攻したが、娘自身が授業の中で学習障害(LD)を学び、自分がそれにピタリとハマると娘自身の口から言われた。
その時、学習障害と言う言葉を初めて知り、娘が障害を持って生活していたことがどれだけ辛いものだったかを知ることができた。
今は学習障害であることを理解し、擁護してくれる人と結婚し、しっかりと家事を切り盛りし子育てを楽しんでいる。
次女は北京大学へ
下の子は好奇心旺盛でなんでもやる子で、4歳くらいから私の下でピアノを習っていたが、3年生の時にフルートが習いたいと言って習い始める。
6年生の時ヤマノジュニアフルートコンテストの小学生部門で最優秀賞を受賞する。
また小学生の頃から医者になりたいと言って、中高一貫の全寮制校に入り成績は常に上位をキープしていた。
高校2年生の時北京大学医学部の留学生試験に合格するも、日本の医学部受験も捨てきれず大学センター試験を受験するが、まさかの失敗。
その結果日本の大学(医学部)は不合格で、北京大学医学部に入学することを決める。
6ヶ月間の中国語研修を受け、9月から北京大学医学部で1年間中国語での予科授業。
それに合格してから6年間の本科を経て、中国の医師国家試験に合格し帰国。
その後日本の医師国家試験に合格し、現在産婦人科の医師を務める。
二足の草鞋
下の子が小学校に入学したのを機に、実家でのピアノ教室の他に公文のペン習字教室を9年間開設。
子育て期に実家まで子供達を連れて行かなければならない時間的リスクを考えて、生徒募集を全くしなかったので、ピアノ教室の生徒は3~4人まで減ってしまった。
それに引き替え子供達が自宅から歩いて通える公文は20人以上の生徒がいた。
公文ならではの教え方や生徒さんへの接し方など、この9年間で学んだことは多かったが、公文をやってみて思ったことは、やはりピアノ教える方が好きということだった。
ピアノ教室
教室のお母様が、別の先生に通うある親子に
「音楽大学に行きたいなら佐藤先生の教室に行った方がいいよ」
と声をかけてくださってお引き受けした4年の男子。
もともと素直ないいものを持っていて、指導させていただいたところ中学生の時にはグレンツェンコンクール地区予選で最優秀賞を頂けるまでに成長し、学芸大学の音楽専攻に合格させることができた。
グレンツェン協会からは優秀指導者賞をいただく。
教室の生徒さん
各学校やクラスでの合唱コンクール伴奏者のオーディションではほとんどのお子さんが選ばれている。
生徒・・・音大4人、東大、お茶の水大、学芸大、京都大、慶応大、医科歯科大
湘南高校、北陵高校、小田原高校、
フェリス女学院付属中、鎌倉女子大付属中、清泉女子大付属中、神奈川県立平塚中等教育学校などの入学、卒業者多数
現在投資家としても活躍中